本とファミレスと僕

最近、本を読むようになった。

幼児期は絵本や児童書を図書室で読みふけり、中学の頃は毎月のお小遣いのほぼ全額を本に使い、100冊以上のライトノベルを持つ程の読書好きだった。しかし高校受験で読書より勉強を優先させるようにするため、本棚を埋め尽くしていたライトノベルを全て売ったあたりからぱたりと本を読まなくなった。高校に入学してからはスマホに時間を取られ、活字本よりも漫画や画集、美術系の雑誌を買うようになったため、文字が紙を埋め尽くすような本はほとんど読まなくなった。近代文学には惹かれたが思うように読み進められず、青空文庫にダウンロードした未読の作品群が増えていくだけだった。そうしてサブカルチャーにかまけているうちに、いつしか僕は、読書の仕方を忘れてしまった。Twitterやインターネットの記事などのおかげで文章を書いたり読んだりすることはやめなかったが、本を読もうとすると、何故だか文章が頭に馴染んで来ないのだ。本を読んでいるときの自分が文章に溶け込んで自分ではなくなるようなあの感覚が、あの快感が、思い出せない。本を読むのが楽しくない。そんな風にふと思ったとき、僕は本を手に取ることをあまりしなくなった。本屋や図書館に本を読むために行かなくなったのだ。

今年の初め、勉強場所を探すために家から一番近い市民センターに向かった僕は、その中にある小さな図書室で一冊の小説を見つける。「武道館」というタイトルとサイリウムの海が輝く表紙からアイドルの話だと勘づいた僕はその本を借り、2週間かけて読み終えた。

 

武道館 (文春文庫)

武道館 (文春文庫)

 

 


気持ちが向いたときに少しずつ読み進めたので読むスピードは遅いが、読むのが楽しかった。少しだけ、読書の仕方を思い出せた気がした。

それから何度か図書館で本を借りては読み切れずに返す、ということを繰り返すうち、自分は読む速度が遅いことにようやく気がつき、借りた本のうちじっくり読みたいものを買うようになったが、相変わらず気分が乗ったときにしか開かず中々積まれた本は無くならなかった。

10月に入り、いよいよ積読している本が10冊を超えてこれは何としてでも読まなければならないと思い立ったとき、僕の半生で一番読書をしていた中学の頃はクラスメイトの会話をBGMに机と椅子がある教室で読書していたな、と思い出し、似たような状況を作れる場所を探すことにした。思いつくのは図書館や喫茶店だったが図書館は飲食禁止で喉が潤せないため却下、喫茶店はいくつか回ったが営業時間が短かったり丁度いいテーブルと椅子でなかったり、時間帯によっては人が多い上に距離が近いので会話の内容に気を取られてしまい読書どころでは無かったりとなかなか難しい。と、喫茶店巡りの最中に読んでいた本に午後のファミレスはドリンクバーを頼めばあとは店員が放っておいてくれるので良い、とあり、本日ファミレスに赴きそこでこの文章を書いている。課題の作文と読書をしたところ、昼時は混むが(テスト期間だからなのか受験期だからなのか高校生が来店したり、校外学習中の小学生が集団で来たりした)それさえ耐えられれば午後はおばさんのティータイムの来店がほとんどで、程よく複数の会話が混ざってBGMになり集中しやすい。テーブルと椅子も丁度いい高さだ。

自宅ではリラックスしすぎてすぐにスマホに手が伸びて無駄なネットサーフィンをしてしまうのだが、外にいるとインターネットにのめり込むこともないので読書や課題や物書きが捗る。物書きはパソコンの方が格好良いような気もするが、スマホフリック入力の方が慣れている人間なのでまあ仕方がない。

ファミレスがひとり作業に向いている場であるという新たな発見をした本日僕が読んでいるのはネット通販で予約し発売日の昨日に届いた「健康で文化的な最低限度の生活」だ。

 

健康で文化的な最低限度の生活

健康で文化的な最低限度の生活

 

 


以前から斉藤壮馬の書く文章を読みたかった僕にとって願ってもいない一冊で、彼の文章は読みやすい上に面白い。今度は詩集やショートショート集などが読みたいところだ。音楽や文学、映画をはじめとしたサブカルチャー、食事など様々な切り口のエッセイがユニークかつ豊富な語彙で綴られており、好きな人のエッセイってこんなにも面白いのか、と先のファミレス云々と合わせて新たな発見をふたつすることになった。

「健康で文化的な〜」を読んでいるうちに居ても立っても居られなくなりこのブログを更新したのだが、面白い文章を読んでいると自分も文章を書きたくなるという新しく出来た僕の癖は、しばらく直さないでおきたい。